宮崎駿監督インタビュー「半径300メートルへの所懐」

2009年7月10日 記事の公開日時 4:29 pm

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宮崎駿監督インタビュー「半径300メートルへの所懐」
 
 

—— 本日は貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございます。 まず、この地図をご覧ください。早稲田大学所沢キャンパスは、狭山丘陵の中に唯一隣接している大学なのですが、宮崎監督がここに早稲田大学があるとお知りになったのはいつ頃ですか?

 大学が来る反対運動があったときから、耳には入っていたと思います。何年前だったかな、全然覚えてないですけどねぇ。僕は40年ちょっと前ぐらいに、所沢に来て住むようになったんです。その頃の所沢なんてもう、“時代劇みたいな町”だったんですよ。一番のメインストリートが舗装もされてなくてね。あのまま残っていれば今大変な観光資源になるのにね。倉造りがズラーッと並んでたし。川越なんかよりも僕は面白いなと思っていたぐらいなんです。

 これはただの僕の願望でホントにできるかどうかわかんないんだけど、「なぜ所沢に街が出来たのか」っていう小さな短いアニメーションを作って、所沢の子どもがみんなそれを見てる、みたいなことができたらいいのになっていつも思うんです。そういうのって面白いですよね。

所沢市くすのきホールにて--宮崎駿さん

—— 宮崎監督がお住まいとして「所沢」を選んだ経緯を教えて頂けますか?

宮崎さんの所沢への思い入れから、トトロは誕生した  要するに勤めの関係で、僕らは西武線の沿線に住んでいたんですよ。僕のいた東映動画や虫プロ、その下請け会社なども含めて、なんとなくアニメーションはそっちの方に集まってたんです。それで住めるとこって言うと、どんどん西の方にずれてきて、とうとう東京を超えてしまって、それで所沢の方に住むことになったのね。そこしかまぁ、自分たちの経済力では入れるようなとこがなかったから。だから、スタジオが変わると遠くまで勤めに行かなきゃならなくて、不便なことも随分ありました。

 ただ、新しい勤め先の圏内にはここに是非住みたいっていう場所はなかったですね。例えば、多摩川の向こう側にあった日本アニメーションって会社に移ったとき、その辺りにはまだちょっと森が残っていたんです。だけど、じゃあそこに住むかっていうともう虫食い状態になって刻々と壊れつつあるって言う風景だった。今行ってみると僕らが面白がって歩いてたような、田んぼや雑木林とかは家で埋め尽くされちゃってますね。ハイジの頃から三十数年でこんなになっちゃった。

漫画家を志した学生時代からアニメーターへ

—— 宮崎監督がアニメーションの仕事に入る前は、学習院大学の政治経済学部で漫画家を志されていたとの事ですね。

宮崎監督の学生時代  僕はどうもね、友人の話だと中学校の時から漫画家になりたいって言ってたらしいんです。それは、漫画家になれば自由な生活ができるんじゃないかって思ってたんですね。どうしてそう思い込んだのか知らないけど(笑)。〆切に追われ、人気に左右されながらの生活だから実は正反対ですけどね。それから、高校時代に何をしたかって聞かれたら「寝てた」としか言いようがないんです。高校の生活の中では、漫画描く時間も気力もなかったんですね。

 だから、「高校終わったら漫画家の勉強しよう」って。僕の兄貴が(学習院大学で)ラグビーやってたんですけど、全く勉強しないんですよ(笑)。勉強しなくても平気なんですね。だから適当なとこに滑り止めに入ったようなものなんです。まぁ卒業するのは実に簡単な大学でしてね。

—— 大学に入学したらすぐに、ここから漫画家を目指そうとされたのですか?

 そう、僕はもう実に「肩から灰色のものがとれた」って気がしました。もうこれから自由でいいんだって。だから講義も面白かったです。だって勉強の仕方も自分で勝手にやればいいんだからね。気に入った講義を勝手に聴きに行ったり、とにかく研究室に通ったり、昔の中学校の時の美術の先生が開いてる絵画教室に毎週行ったりしていてね。だから経済って言いながらも、その大学の時間はとにかく、漫画の基礎的な勉強をしようと考えていたんです。その頃お袋が、横山泰三っていう大人の漫画家が文藝春秋に描いてた文章を読んでて、その人は“何でもそれをデッサン”って人だったの。だからお袋に、「デッサンはやらなきゃいけない。人真似はやっちゃいけない」って言われてね(笑)。それでそういう風に思い込んでスケッチやデッサンをやっていましたね。

 ただ、自分でそれを勝手にやっていたのは、漫画描けないからやっていたわけで、だからと言って別に漫画が描けるようになるわけじゃないでしょ。だから4年経っていくうちに、就職するか、もう1年いるかっていう選択を迫られたんです。まだとても漫画家にはなれそうもなかったから。そしたら、漫画家の他にちょっと興味があった、「アニメーター」になるくらいしかなかったんです。そんな、「大勢の中に入ってタイムカードを持って出す生活」はいかがなものかと思ったんだけど、まぁ留年してても同じだなって思って卒業しちゃったわけなんです。

—— 宮崎監督は集団作業より個人作業がお好きだったのかなという印象を受けたのですが、漫画家を目指されていたのも、やはり一人で決めて一人で全て作れるという点が向いていたのでしょうか?

 そうですねぇ。人から何もいわれないうちにこっそりこう(笑)

——(笑)

学生相手に、身振りを交えて親しみを込めて話す宮崎監督  集団作業を学んだのはアニメーターになってからで、しかも仕事で勉強したんじゃなかったんですよ。まず東映動画に入ると、高卒と大卒で給料が違った。定期・不定期でも給料違うんです。一緒に入った友人がいたんだけど、彼より自分の方が(給料を)もらってるわけです。これが、きわめて不愉快なことだったんですよね。僕は戦争中、みんなが困っているときに家業が軍事産業のおかげであんまり困ってなかった。それがずいぶん自分にとって負い目になって、むしろ罪の意識の方が強くてね。僕も社会主義というものに惹かれた人間ですから。

 それで、東映動画には労働組合があったんですよ。小さな組合ですけどね。そこで、自分はそういうことをしなければいけないんではないかと思ったんです。「やっぱ同じ仕事で同じような生活しているんだから、同じ給料よこせ」とか、「その友人の方が良くやっているんだから、僕に少し余計に出すような査定をするな」とかね。おっちょこちょいだから労働組合で発言しているうちに、その中に入んなきゃいけなくなって、役員をすることになって、責任だけはものすごくのし掛かってきてね。

 そのとき一緒にいて、「おまえそんなことも分かってないの」って言ってくれたのが、5年上の先輩の高畑勲だったんです。だからそこで集団作業っていうよりも、「たくさんの人間で仕事やる時は何を考えなきゃいけないのか」ってことを、緊張感の中で随分思い知らされましたね。それは、映画を作るのも同じです。一番厄介なのは、みんながボランティアで、自分が善意でしていると思い込んで、自分が正しいと思っているのが一番よくないんですよ。それで、こいつとこいつが仲悪くなると、組織が壊れちゃうんです。

若い頃の宮崎監督のお話

まちづくりとふれあい

—— 先ほどのシンポジウムで、(自然保護活動やまちづくりの)政府・行政からの独立を主張した意見がありました。例えば、まちづくりで政府から離れるということは、自分達自身でまちの指針・モデルを作りあげていくものでしょうか?

真剣に語る宮崎監督  まちづくりっていうのは、日本のように伝統を持ってきた国が“都市計画”という発想で考えるとうまくいかないんですよ。それは、近代主義でこう“線”をひっぱっても、日本の特有の文化的な歴史を踏まえないとうまくいかない。多摩ニュータウンも幕張のやつも、皆だめになったんです。行ってみると分かるんだけど、いい散歩道が作ってあるのに、誰も歩いちゃいないでしょ。なぜそんなことが起こるかというと、人が歩くのは気持ちの必然性じゃないから、そうすると道って、まっすぐに引かないで本来緩やかに曲がって行くべきものなんですよ。でも図面の上に格好良く曲がっていくカーブを引いても、人が歩くと気持ちが悪いラインだったりする。だから、日本の街って自然発生的に出来てきたんですよね。

  加藤周一って人が言ってるんだけど、江戸の街って言うのは、お椀にピーってヒビが入る時のヒビとものすごく似ている。大きくは都市計画があるんだけど、実はそのように真ん中から細かい路地がいっぱいできて、江戸の街はそうやって膨らんだ街なんです。例えば名古屋も、大空襲を受けた後、すごい都市計画で100m幅の道路を作ったじゃない。細かい路地をつぶしたんです。そうしたら何が起こったかっていったら、名古屋の市内からどんどん人が出て行っちゃうことになった。これはどういう風に理解したらいいんだろうっていうね。つまり、近代主義に向かないと言ってる面白い評論家もいるんです。

 まちづくりって言うときに、例えば僕は電信柱を埋めた方がいいと思っていて、埋めただけでケリがつく問題じゃないんだけど、どこか違う視点から上手く食い込めないかなぁって思うんです。さっき(シンポジウムに)西武の人が来ていたからつい話したんですけど、「松ヶ丘」って知ってますか?知らないでしょ。

—— 所沢の、住宅地になっているところですね。

 そう、ここの大開発を西武がやったんですよ。(地図指して)ここらへんを、超高級住宅地にしたんですよ。八国山の麓にあって、これはまちづくりで賞をもらったところなんですけど、今行ってみると、“死の町”みたいなんですよ。たしかにこう、空間も広くとって、植木も植えてるんだけど、まず植木の高さを制限していたり、街路樹もどんどんハサミ入っちゃって、あんまり繁茂してない。シーンとしてますよ。実は僕がここへ引っ越そうかといったら、家族に猛反対されたんですけどね(笑)。

 坂道が結構あるから変化はあるんだけど、実はこの中に店がないんですよ。車持ってないとどうにもならなくて、みんなどっか街に行かなきゃいけない。所沢まで行かなきゃいけないとか、バス乗んなきゃいけないとか。でもバスの便は多くない。いろんな問題点があって、曲がり角にきているとこなんです。そういうとこ見てるとねぇ、一件だけ店作ったら上手くいくんじゃないかとか、くだらないこと考えてんです。

—— 何のお店があればいいでしょう?!

 それねぇ。なんかこう、親父が一人だけいて、そこへ行くとコーヒー飲めるとかね。タバコ吸えるとか。それで簡単なランチが食える。本当は夫婦でやるといいんですけどね。あと、おばあちゃん達には自分よりちょっと若い男性がいること。おじさん達には自分よりちょっと若い女性がいることだね(笑)。そうすれば上手くいく。でもこういうことって、非常に大事なことなんですよ。風景としておかしくないような店が一件あるだけで、人が来ると思うんですけどね。そこへいったら人に会えるとか、ね。

めがねを外した貴重な一枚 まちづくりって、神様の目から見たらこれだけしか陸地が残ってないってなるけど、ここに下りて這い回ってみると実は、住んでるところの半径300m以内が一番大事なんですよ。僕が日曜日に散歩行くときには、車乗らないと狭山丘陵には行けないから、それよりは自分の近所で探してます。狭山丘陵の周りには、自分の教え子達を連れてきてそこでいろんな自然教育をやっている先生とか、ここらへんが気に入ったから住み着いちゃった人たちがたくさんいて、そういう率先して(自然を)守ってくれる人を、タニシがくっついてるように僕なんかが応援するっていうかね。僕にとって大事なのは、淵の森とか柳瀬川なんですよ。

 さっきトトロ財団の(理事長の)安藤さんが言ってたけど、イギリスでは成功しているナショナル・トラストが、日本ではなかなか広がらない。だけど、人口は減り始めている。僕が住んでる路地だって、三件空き家になる。もうおばあちゃん死んじゃったとか、息子に引き取られていっちゃったとか、もうボロすぎて誰も住まないとか、借りにきてもすぐに出てっちゃうとかね。お化けが出るんじゃないかと思うんだけど(笑)。そういうあちこち壊死状態になっている地域も、所沢はいっぱいある。それでも一方で開発しているわけ。そのうちここら辺、人が住まなくなるよ(笑)。だから、老人ホームと保育園が密接しててね、子供が侵入してくるような、そういう環境をつくってそこに電車が通っていたりする方が僕はいいと思う。

—— 「崖の上のポニョ」でも、そのような場面がありましたね。

 そう。だけどあれは町外れにつくってありますよね。僕はやっぱりあれが真ん中に入ってこなきゃダメだと思う。そういうとこもありますけどね。なんか今までの考え方を変えなきゃいけないんじゃないかなぁって、しょっちゅう思います。

シチズン となりのトトロ掛け時計

あなたの部屋にもトトロを。シチズンの『となりのトトロ 掛け時計』

オススメの作家と日本観

—— 宮崎さんは作家の堀田善衛さん・司馬遼太郎さんと対談もしていらっしゃいますね。そのお二人の作品で、学生に薦める本などはありますか?

 それは難しいんですけどねぇ。堀田善衛さんの『方丈記私記』っていうのはとても面白いし、読むに値するかもしれません。でも堀田さんが本当に創作していた時期っていうのは、『広場の孤独』とか、今読むと違う国じゃないのかって思うような、戦争直後の日本の風景が出てきます。あと短編集がいくつかありますね。

 司馬さんはですねぇ——。難しいんだよね、司馬さんって。言葉尻を簡単に利用されちゃうから、誤解される人なんですよ。そこに何があるかということを考えなくても表側のやわらかさでつい、日本だけじゃないかと簡単に愛国心をもたせたり錯覚を起こさせる文脈を持っているんです。あの人は日本の愚かさも十分わかっていたけど、愚かなものを書きたくなかった人だからね。分かっていながら書かなかったんです。 だから、司馬さんのそういうところをふまえて読むっていうのは結構技術がいるからね。

 まぁ、それでも『坂の上の雲』は面白いですよ。でも、あそこで気をつけなきゃいけないのは、みんなが読んでいて自分のことを児玉参謀だと思うんですよ。実際は学校も会社の中も、世の中ほとんどが伊地知参謀なんです。みんなかっこ良い児玉参謀に憧れるんですけど、残念なことに違うんです。そういう人は今の日本にはいないんですよ。もしいたら、選挙もしないで総理が三人も変わる国にはならないんです。帝国の没落って感じですよね(笑)。

よく笑って場を和ませてくれた宮崎駿さん

早稲田大学所沢キャンパスの学生に向けて

—— 先ほどのシンポジウムで(早稲田大学の)大堀先生も仰っていたとおり、所沢キャンパスの学生の中には、大学周辺の自然環境を保全したいという意識や、そもそも興味がない学生もたくさんいるんです。

 それは当たり前ですよ。世間と同じ比率だと思うんです、僕は。んー、だからこれからじゃなくて、これで日本の膨張も終わったから、早稲田なんかもそのうちねぇ、東京に戻んなきゃいけなくなる可能性あるよ。

—— ええ!?

 僕は、なんかそう思う。その———、学校の勉強をするのにあまり良いとこじゃないよ。フィールドワークとか、自然を勉強するならいいけど。学問をするのには、老人ホームや保育園と同じでね、良い環境のとこにいるよりも刺激があるとこにあった方がいい。

—— それは僕たち(所沢キャンパスの)学生の多くが、初めは思うことかもしれませんね。では、その所沢キャンパスの学生に向けて、是非アドバイスをいただけませんか。

 そのうち、ここから東京に移り住む!(笑)

——(笑)。ただ、僕のように「トトロの森」の中にあるということに魅力を感じて志望した受験生や、そこを自慢に思っている学生も多いんです。

 それはそうだと思いますよ。僕は早稲田が来た結果、環境が保全されているというのは本当だと思うんです。ちゃんとした人間が開発した方が、乱開発されるよりいいことは事実です。でも、ここで飲み会やるときはどこ行くの?所沢じゃないでしょ?

—— 所沢駅まで出ることが多いです(笑)

 あ〜そうなんですか(笑) だから僕は、新入社員なんかが部屋を探すときに、スタジオと自分の家との間に盛り場を一つ置けって言ってるんです。

—— 帰りがけに寄る、ということですね。

 うん。本屋があったりね、気分転換できるようなのがあったほうがいい。住宅街を行ったり来たりしても人生暗くなるだけだから、と言ってますけどね。学生でも、こんなところ(地図で「小手指」を指さして)に住んじゃってる人は大変でしょう。

—— それ、僕のことです!

あーはっはっは(笑)

 僕なんかが想像できないこともいっぱいあるでしょう。つまり、盛り場をうろつくことだけが刺激じゃないからね。実は自然の中にたくさんの刺激があるはずなんだけど、それを発見するのは結構ね、忍耐力と技術がいるんですよ。それを発見できたら、とても素晴らしい事だと思います。

—— 本日は、大変有意義な時間となりました。改めまして、どうもありがとうございました。

インタビュー時間を延長して応えてくださった宮崎駿さん  ありがとうございました。

インタビューを終えて

宮崎駿監督へのインタビューは、私が1年生の頃からずっと目標であり、また叶わぬ夢でもありました。実は早稲田大学人間科学部を受験したいと思ったきっかけの一つとして、ある学生のインターネットでの書き込みに「トトロの森にあるキャンパス」なのだという、その都市とは離れた「恵まれた」環境を自慢とも自嘲とも取れる内容を発見し、行ってみたい、実際に見てみたいと興味を抱いたところにも端を発しています。

入学してからも、宮崎さんの自宅は所沢にあることや、所沢周辺のいろんな地域やスポットが『となりのトトロ』のモデルだと言われていることを耳にしました。また、小手指にトトロのふるさと財団さんの本部があったり、研究室の活動で所沢市の各小学校に行くと、子どもたちや先生がトトロのキャラクターをあしらった創作をしているのを何度も目にするなど、多くの場面でこのまちは、宮崎さんの生み出した作品の恩恵・引き継いだ意志を活力にしているのだということを、文字通り肌で感じてきました。

取材は、企画段階から多くの方々にお世話になり、事前にお話を伺いながらようやく実現しました。

「宮崎さんは、トトロの森を壊してできた私たちキャンパスと早稲田大学のことを快く思っていない」というのが学生の間では専らの噂でした。実際に話を伺ってみると、良い部分は認め、学生の現状を理解し、また将来像まで描いておられました。しかし、キャンパスとその周辺環境に愛着と関心を持たない学生にとっては、その無知振りを恥じ、優しく諭されるような内容になっているのではないでしょうか。

インタビューの前に行われた、トトロのふるさと財団主催のシンポジウム『トトロの森の未来に向かって』では、早大自然環境調査室の大堀先生が、パネルディスカッションの司会をされました。その際大堀先生は、宮崎さんや多くの聴衆の前で早稲田大学保有の湿地・森林の環境保全に対する多くの学生の無関心振りを、まとめで大きく取り上げています。私はこのインタビューへの思いが強かった反面、何もしてこれなかった自分が非常に悔しく、それが強く胸に残っています。

この記事の内容は、学生や大学の教職員だけでなく、多くの方に読んでいただきたいと思っています。そこで何を感じるかは人それぞれです。しかし、読んでそれで終わるのではなく、ここから今後、皆さんの何らかのアクションに結びつくことができたなら、私たちはとても嬉しく思っています。

企画・インタビュー:下村 洋輔
インタビュー・渉外:一和多 義隆
資料・インタビュー:片桐 麻優
写真:佐藤 祐一郎/新井 里那

ご協力:株式会社スタジオジブリ 広報部
後援:財団法人トトロのふるさと財団
後援:早稲田大学自然環境調査室 大堀 聰 先生

最後に、かわいいポニョのイラスト入りサインを

最後に、かわいいポニョのイラスト入りサインをいただきました。

宮崎 駿さん スタジオジブリ公式プロフィール

アニメーション映画監督。1941年1月5日、東京生まれ。

1963年、学習院大学政治経済学部卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)入社。「太陽の王子ホルスの大冒険」(’68)の場面設計・原画等を手掛け、その後Aプロダクションに移籍、「パンダコパンダ」(’72)の原案・脚本・画面設定・原画を担当。’73年に高畑勲らとズイヨー映像へ。日本アニメーション、テレコムを経て、’85年にスタジオジブリの 設立に参加。その間「アルプスの少女ハイジ」(’74)の場面設定・画面構成、「未来少年コナン」(’78)の演出などを手掛け、「ルパン三世 カリオストロの城」(’79)では劇場作品を初監督。雑誌「アニメージュ」に連載した自作漫画をもとに、’84年には「風の谷のナウシカ」を発表、自ら原作・脚本・監督を担当した。

その後はスタジオジブリで監督として「天空の城ラピュタ」(’86)「となりのトトロ」(’88)「魔女の宅急便」(’89)「紅の豚」(’92)「もののけ姫」(’97)「千と千尋の神隠し」(’01)「ハウルの動く城」(’04)といった劇場用アニメーションを発表している。

中でも「千と千尋の神隠し」では第52回ベルリン国際映画祭 金熊賞、第75回アカデミー賞 長編アニメーション映画部門賞などを受賞しており、「ハウルの動く城」では、第61回ベネチア国際映画祭でオゼッラ賞を、続く第62回同映画祭では、優れた作品を生み出し続けている監督として栄誉金獅子賞を受賞している。

2008年は、4年ぶりの最新作「崖の上のポニョ」を発表。

著作に「トトロの住む家」「シュナの旅」「何が映画か」(黒澤明氏との対談集)「もののけ姫」「出発点」(以上、徳間書店刊)、「折り返し点」(岩波書店)など多数がある。

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