創立から23年…早稲田大学所沢キャンパス今昔物語

2010年6月22日 記事の公開日時 4:44 am

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創立から23年…早稲田大学所沢キャンパス今昔物語
 
 

人間科学部が出来る以前、所沢キャンパス周辺にはどのような物語が隠されているのだろうか。
今回は、所沢キャンパスにまつわる歴史をみなさんに紹介していきたい。

大学が来る以前の小手指前

小手指駅

大学の周辺というのは、学生を中心とした商店街が発展している場合が多い。しかし、小手指駅の周辺はいわゆる「学生街」ではない。創立前には南口にガストやカフェ・ド・クリエなどはなかったのだが、小手指駅周辺の発展は人科の創立とはあまり関係がなかった。むしろ、都心に勤務するビジネスマンとその家族向けのベッドダウン化が、要因であったようだ。

テニスコートのその昔

現在テニスコートとして利用されている場所は、以前は田んぼであった。田んぼを整備して、即テニスコートかと思いきや、一度ミニゴルフ場になった後、人科のテニスコートへと生まれ変わったのだとか。

競技施設の苦悩

所沢キャンパス陸上競技場

学バスを降りたあと、100号館へ向かう途中には陸上競技場と野球場が存在する。現在の形に至るまでに、それぞれ苦悩があった。

そもそも、陸上競技場は創立以前、湿地帯であった。そのため、現在のフィールドを整備するのにも一苦労。埋めても埋めても水分がしみ出てきたらしい。今の姿からは、想像もできない事態である。
また、野球場も所キャンならではの苦悩を抱えている。実は野球場完成当初、ナイターができる立派な照明があった。しかし、91年にそれらの照明は完全に撤去されてしまう。夜間の点灯が、生物、特に昆虫の個体数に影響を与える危険性があったからだそうだ(別の理由もあるらしいが…)。
自然への配慮も忘れてはならないということだろうか。

モチーフは迷路?

キャンパスにかかる橋

創立時と現在とを比較すると、施設の違いが顕著である。創立時には木の食堂(現在の松屋)やスポーツホール、アクアアリーナは無かった。さらに、木も移植したばかりであったため、現在のように生い茂ってはおらず、野球場と陸上競技場の間にかかる橋からは広域にわたり見渡せたそうだ。

一方で、創立当初から共通しているのが、100号館の使いにくさである。原因の一つは、山の稜線を活かしたためであろう。87年5月に落成した100号館は、理工学部教授(当時)の池原義郎氏が設計したもの。同氏は、西武ライオンズ球場(現・西武ドーム)・西武園遊園地・北九州大学・大磯ロングビーチなども手掛けた建築家。

みなさんは、この100号館がいくつかの賞を受賞した建築物であることをご存知だろうか。調べてみると、日本芸術院賞・大隈学術記念賞・建築業協会賞・日本サインデザイン賞と、確認できる限りで4つもの賞に輝いているのであった。

しかし、一見迷路を彷彿させる内装。環境に配慮したため山を削らずに建てることにしたとは言え、日頃使う側からすれば平らにして頂きたかったのが本音である…。

屋上から撮影したキャンパス

もしかしたら違った名前になっていた?

「人間総合科学部」という名前を聞いたことがあるだろうか。実は、本学人間科学部は前述の名前になるはずであったのだ。昭和59年の段階で「人間総合科学部」になることに一旦決まったのだが、人科創立ギリギリの昭和61年に名称変更され、現在に至る。
ちなみに「人間環境学部」といった名前も浮上していたのだとか。

これからの所沢キャンパスは…

2010年度より101号館(通称、新棟)も完成するなど、少しずつではあるが変化している所沢キャンパス。しかし、まだまだ改善の余地はあるのではないだろうか。例えば、学バスの無料化やキャンパス内へのカフェスペースの設置、娯楽施設の誘致など、挙げるとキリがない。
そもそも、私たちは学費を払っている側である。何が不足していてどのような点が不便なのか、声に出して訴えかける権利はあるはずだ。学生と大学側とがお互いに耳を傾け合い、よりよいキャンパスになることを望む。

(文=西岡佑師)

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